
すしの力
生の素材を使う寿司は、この点での〝透明度″は高い。
蕎麦は最も日本的な食べものと営業の規模ヰ「正体」の判明虔ヰ急に入るえびの国産度はわずか六%、そして、蕎麦粉そのものの自給率も二二%(いずれも二〇〇〇年現在)にすぎない。
だが、何が、どこから来ているのか判然としない、加工度の高い他のファストフードよりは「正体」は見えている。
これを図にすれば、別掲のように、象限は四つに分かれる。
食のグローバル化、ファストフード化によって起きているのは、自分の口にしているものの素性がはっきりしないという、この「正体」をめぐる不安である。
スローフードの要件私の郷里の近くに大山町という、町とは名ばかりの山村がある。
そんな山の中なのに、週末になると隣りの県、福岡からもふくめて、大勢の都会人たちがやって来る。
お目当ては、清流のほとりにドイツ風のコテージが並ぶ「木の花ガルテン」。
なかでも人気のあるのは、地元の農家のおばあさん、おばさんたちが腕を競っている、煮しめなどの郷土料理が好きなだけ食べられるビュッフェ。
順番待ちの行列ができる。
だが、いちばんの売り物は、近在の農家が作った果物、野菜などの農作物。
新鮮さが魅力だが、「正体」がはっきりしていることも大きい。
全ての品に、だれが作り、出荷したかを示す表示がある。
今ではこのやり方は各地で行なわれており、なかには顔写真付きのまで出現しているが、ここではさらに一歩進めて、それぞれの品をいくらで売るかの価格寿司と蕎麦,そして「地産地消」設定も出荷農家に任されている。
あまり安く設定したら損をするが、高すぎて売れなくても損、そのリスクを各人が負う。
売れ残れば、夕方には捨てなくてはならないから、生産者も市場の動向に真剣になる仕組みである。
五〇人で始めたのが、今では近隣農家二四六〇戸が加わっている。
あまりの繁昌ぶりが妬みを買って、独占禁止法違反で訴えられたこともあるが、今、全国に拡がっている「道の駅」はここの成功がヒントだったと言われる。
それだけでなく、大山町はいろいろなことがここで始まった地である。
そこに週末群がる都会人たちにはあまり関心のない話だが、この国の大都市以外の地域が生き残るためにやってきたさまざまな試みには、その時々に流れがある。
それをキーワード(スローガン)風に並べると、「一村一品」―「町おこし、村おこし(畠おこし)」―「地域活性化」、そして今は「地産地消」、となる。
「地産地消」―その土地、土地で生産されたものをその近在の人たちで消費する、という「食」のありようにいちばんかなった地域振興策だが、そのシンボル的存在である大山町は「一村一品」の起点でもあった。
「五反百姓」という言葉があるが、大山町はそれにも満たない平均反数四反(約四〇アール)の、県内有数の貧農地帯だった。
〝夜逃げ村″という別称まであった。
米作中心の国の農業政策に従っていてはどうにもならない状況のなかで、一九六〇年代はじめから矢幡治美という秀れた指導者(農協組合長、のち町長、故人)が推し進めたのは、限られた田んぼの外側に、付加価値の高い特産品を作ることだった。
「ウメ、クリ植えてハワイに行こう」ハワイは当時、憧れの外国の代名詞だった。
以来、一戸の夜逃げも起きておらず、今では年収一〇〇〇万円を超す農家がかなりを占める。
おそらく、パスポートの保有率(七〇%)は今も全国一ではないかと見られている。
もちろん行き先はハワイだけではなくなり、「木の花ガルテン」をドイツ風にしたのも、外国への農業研修を重ねた末の選択である。
この大山町の試みと、歓楽型の温泉町に背を向けて自然と融合した温泉地を目指していた湯布院とに着目して大分県知事(当時)、平松守彦が運動化したのが「一村二品」だった。
一村言巴から「地産地消」まで、さまざまな軌跡を経てはいるが、食を中心に据えていることでは〝先祖返り″している面もある。
その間に深まったのは、食材に対する不安であり、高まったのは素性のわかったそれを求める消費者の欲求である。
寿司と蕎麦,そして「地産地消」ついでながら、大山町や湯布院町で先駆的な試みが可能だったのは、秀れたリーダーがいたこととサイズの小さい自治体だったことが大きい。
が、「平成の大合併」(「平成の愚挙」と私は呼んでいる)によって、それぞれ二〇〇五年、日田市大山町、由布市湯布院町となった。
町民たちにとって苦悶の末の選択だった。
実は「スローフード」というのも、ただスローであればよい、ということではない。
まして、流行の先端を行く都会派のセレブリティたちが自然食品のディナーをゆっくり味わうということでもない。
イタリアでこの運動を興したスローフード協会長、カルロ・ペトリー二が、どんな食べものを「スローフード」と呼ぶかについて語った四つの要件(定義)というのがある。
伽その土地の産物であること素材の質の良さが保たれていることその土地の風習に合った生産法で作られていることその土地に活気を与え、郷土の社会性を高める食品であることこの定義は、「地産地消」が目指したものと、ほとんど寸分もたがわない。
イタリアと日本との二つの運動の問には、何のつながりもなかったし、連絡を取り合って進めた形跡もない。
食のありようを追求していくと、同じことに辿り着いてしまうということであろう。
元祖のスローフード協会は、ゆっくりと、しかし着実に、運動の支持者(地方自治体をふくむ)を伸ばし続け、国際的な拡がりを持つようになり、毎年、「スローフード賞」を贈るまでになった。
自分たちと志を同じくしていると認定した人たちを対象とした賞である。
二〇〇二年、アジアから初めて選ばれたのは佐賀県の農民、武富勝彦さんだった。
高校教師から農民に転じた武官さんが手がけたのは「古代米」である。
有明海沿岸に拡がる葦原の葦を堆肥にして有機農法で赤米、黒米、緑米の古代三色米を作る武富さんたちの「葦農」は、スローフードが言う「その土地の風習に合った生産法」といっても、その「風習」は卑弥呼が生きていた古代にまで遡りかねない。
同じ県内の古代遺跡「吉野ヶ里」もそi遠くないが、もともと稲作とともに「国つくり」が進んだ私たちの国は「豊葦原の瑞穂の国」(古事記)なのである。
受賞の知らせを聞いた武富さんが発した第二戸は「スローフードつて何?」だったとい「食」の荒涼たる光景「食」の荒涼たる光景「メニューインと箸」「メニューインと箸」という話を私は時々することがある。
ユーディ・メニューイン(一九一六―九九)はヴァイオリンの名手として世界的に知られた人物だが、敗戦後の日本にやって来た最初の一流演奏家でもあった。
一九五一年(昭和二六年)。
戦争が終わって六年しか経っておらず、焦土のなかから起ち上がったものの、食糧も十分ではなく、人々は文字通り「食うや食わず」の暮らしをしていたころである。
今でこそ、世界の一流アーティストが来日するのは珍しいことではなく、文化・アートのニュースに過ぎないが、敗戦直後の貧困国では、それは社会的な「事件」であった。
東京で彼を迎えて演奏会をやれる会場は、焼け残った日比谷公会堂しかなかった。
そこからあまり遠くない有楽町の焼跡ガード先で靴磨きをしていたおじさんが、一生懸命に靴磨きに励んで、貴重な切符を一枚手に入れたという〝美談″が新聞の社会面に大きく載った。
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